2011年11月27日

仮面劇

アトリエみるめショウで、劇団渡辺の「オイディプス」を観たじゃ。一昨夜の大道芸もなかなか面白かったという話を聞いて、劇場に入った。
仮面劇じゃった。仮面を演者がかぶってするのが仮面劇じゃ。しかし渡辺のはちょっと違ったのじゃ。仮面がCOME IN(カメン)と俳優を呼んで、俳優が仮面に入るKAMEN2劇じゃった。仮面が俳優をかぶるのじゃ。そういう面白い趣向じゃった。
先ごろの県民劇団静火の舞台では顔部分をくりぬいた額縁付き肖像画を俳優がかぶるカタチで見せたが今回もかぶりものってことじゃ共通するのじゃ。こういうスタイルを追究するのもおもしろいとまず思った。
この役は誰が演じるかときめるのをキャスティングとよぶ。キャスティングというのは鋳物のことでもある。つまり鋳型=登場人物に溶けた金属やらガラスやらチョコレート=俳優を流し込んで形を作るわけじゃ。能もジジイでも美女を演じられるのも面あればこそなのじゃが、ただ今回の仮面劇は、いちおうこれはどの役と決まっているようだったが、基本無個性なマスクじゃったによって、能の面とは異なるのじゃが…。
でもって悲劇中の悲劇、オイディプスを演じたのじゃった。
親殺し、近親相姦、タブー中のタブーを犯すことを運命付けられ、その運命にがんじがらめにもてあそばれるオイディプス。しかし、現在もタブーではあるとはいえ、タブーの度合いは2500年前、しかも西洋世界とはだいぶ違う気がする。その時、ワシらは書かれた当時のような悲劇性をオィディプスに見ることができるのだろうか。
てことがあるので、ギリシァ悲劇が今の我々の何に繋がるのか、そうした切り口を見てみたかった。それにしか上演する意味がないとは思わないが、少なくともワシはそれが見てみたいことよのうと思ったのじゃった。
一つのスタイルはできているので、再演、再々演によるブラッシュアップを観つづけてみたい、と思ったじゃ。
そいからKAMEN2劇なので、映画の「マスク」みたいに、仮面の人格が俳優に乗り移るって演じようもあったのかなぁという想いが頭をよぎったことも書いておこう。
とまれ、約1時間20分、オイディプスの話を反芻というか復習しながら飽きることなく見せてもらった。出演者たちにありがとうをいいたい。


  


Posted by みるめ下足番 at 21:48Comments(0)

2011年11月23日

演劇する人々

あるところで、先日行われた静岡大学演劇部の話が出たじゃ。その流れで、春の演劇カタログで同演劇部のやった「リア充」の話が出て、今時の静岡大学生一般のようには「リア充」できない、つまり大学内少数派が集まっているので「リア充」したいな、というお芝居だったのではないかという話になった。これは第3者の捕らえ方で、なんらかの科学的な調査に基づいた分析でないので、間違ってるかもしれん、だったらごめんなさい。「リア充」という言葉すら、「それって何」と「ツンデレ」という言葉と共に、わざわざ子息Bに問い合わせたぐらいで、わが輩の辞書にようやく見出しがあるだけで、リアル言語として使いこなせてないので、いま時の学生にとって「リア充」するとはどういうことなのか、皆目わからん。カレシヤカノジョがいないまでも合コン続きで忙しいって状態かしらん?ただ学生の中での少数派だとしたら、その少数派が「演劇する」というさらに少数派の群をつくり、小数点より左にゼロしかないような累乗すれば、さらにちっこくなってしまうみたいな行動をとるのがよくわからなかったじゃ。
今夜も少数派たちの、それにしてももうちょっと増えないかなみたいな会合があったのじゃが、静大の少数派×少数派は先日の舞台に出いている人数だけでも17、8人はいたので、ぜんぜん少数ではないじゃんと思うのじゃ。ワシが学生だった時代の大昔の演劇部でも、活動してたのは全員で20人に満たなかったと記憶する。ワシら友達3人が夏前に脱退したからもっと減ったはずじゃ。それでも彼らは有料で7、800人は動員していたと思う。秋の公演の前、夜遅くまで、オルグ(恐ろしい用語じゃ)と称して、マッチ売りの少女よろしく、寮の、下宿の部屋部屋を訪ねて売り歩いておった。たまたまたずねていた片山寮の一室でそのマッチ売りに出会ってしまったワシは、こんなところでやってられるかい、ケッと後ろ足で砂をかけるような感じで去ったワシなんぞに向けられた、部同期生の女子の買って買ってと切望する必死のまなざしに負けて買ってしまったのじゃった。彼女が主役の「アンネの日記」じゃった。案の定、ワシにはつまらん芝居じゃったが、買ったことを後悔はしなかった。アレは一体なんじゃったのだろう。face06
とにもかくちかこにも、若い+必死、というのは、いいものである。まぼろしかもしれないが、多分、そこに希望を感じるからなのではなかろうか、と思う下足番じゃった。
 今週土日は、みるめで、小屋主、管理人の本番である。
  


Posted by みるめ下足番 at 00:39Comments(0)

2011年11月20日

静岡大学演劇部公演

ストーリーらしきものはない。と思う。face01
静大演劇部メンバーのひょっとしたらこれ面白そうというものを並べて全力でやってしまいましたって舞台。おいおい喉をつぶすぜというような発声で、でも全力全力って感じ満載で、1時間弱ぶっ通すこのすがすがしさ。真似ができない。若さ?うーむ、そうともいえる。face04
おそらくチケット代が何千円もする舞台では観たことがないが、静岡で観る舞台に結構あるのは登場人物を装ってみましたという舞台。結果登場人物にリアリティがないってなことになる。
セリフというのは、登場人物のあるシュチュエーションの中で発せられる言葉で、セリフだけ言ってれば存在できるというのは演じるサイドの希望でしかない。演者そのものの存在感か、脚本そのほかを材料にみっちり築き上げた役作りのけっかとしての存在感が、どちらかがないと、セリフと共に消えてしまう。消えてしまっているのに根居心地が悪くて小芝居してさらにみっともなくなってしまう、ってな舞台を結構見てきた、じゃ。

その点、演劇部の舞台は装ったり、小芝居がない。というより、登場人物はあるが、登場人物が担うべきドラマがない。これはすごい。face08何かが起こるのかと思うと次の場に移ってしまう。あれよあれよである。face08
この肩透かし感はすごい。わかりやすく言えば、警察を舞台に「部長、また寿町にちかんが!」「なにっ!」ってことで始まったと思ったら、次のお話に移ってしまうのである。結構決めゼリフはあるのである。しかし、それはそれで終わるのである。人間が椅子とかドアになるのである。しかし、それはそれでおわるのである。それだけなのである。不思議なのである。
そこにいるのは、「あー来年なったら就活始めなきゃなぁ」と多分思っているはたちそこそこの男子女子の群の「どーんとなったはなびだきれいだなぁ」と踊る大川興行みたいなものである。
それが、いまという時代に生きている静岡大学生のリアルな姿なんじゃなってことを感じるのじゃ。
この爽快感。
おそらく20年ほど前の演劇部、もとい演劇研究部の先輩たちにはこういう潔さはなかった。もっと装っていたし、もっとナルシスティックになっていた。ダメ出しようもあった。
しかし、今回の舞台は無理だ。何をどうしたかったということの見当すらが付かないのじゃ。脱帽じゃ、降参じゃ。「リア充」に続いて2連敗じゃ。
きっと法学の学生はいなかったに違いない。いたとしたら勉強していないのに違いない。なぜなら、何が「平等」クリスマスなのか、香りさえしなかったのじゃから。
わかるかなぁ、わかんねえだろうなぁ。
ちなみに、喉を痛めない発声だけはどこかで学んで欲しい。と下足番は幼稚園児を見つめる園長先生のな気分だったのじゃ。

  


Posted by みるめ下足番 at 17:02Comments(0)がちなこと

2011年11月19日

ノーアートノーライフ

雨はそろそろ峠を越えそうじゃ。それにしてもすごい雨じゃった。
この雨の中、せがれBはナイロン100℃の「ノーアート、ノーライフ」を観にいってるじゃ。
ノーアートノーライフはパリにくすぶる芸術家志向の男たちを描いた芝居で、再演じゃ。
ケラに対する世間の評価が高いのは知っているが、2年前「カフカ…」を観て、この人はとんでもない人じゃと思った。ケラの才覚とナイロンメンバーの劇団としてのパワーは並々ならないものがある。
エンタメ志向とアート志向に東京の演劇は大別されるようじゃが、欲張りにも両方をひとつの舞台でやっちゃえるケラとそのチームはすごい。
観にいった理由の一つに、天城山葵というらせん劇場元メンバー、現在は廣川三憲というナイロンの役者を観たいというのがあるのじゃが、つまらんは芝居なら貧しい財布をはたいてまでは行かない。
そのナイロンの舞台に行けるせがれBがうらやましい。
来春、気になっている鹿殺しの舞台に、高田聖子とともに客演するらしいので、しかも紀伊国屋で4000円で見られるというので、なんとか行きたいなぁと思っておる下足番じゃった。
今日はマチネ、ソワレで50目前の廣川くんも大変じゃろう。
せがれBの観劇報告を待つことにする。  


Posted by みるめ下足番 at 19:10Comments(0)うらやましいこと