2013年02月25日
演劇カタログの若手劇団 2
静大演劇部のことは触れたので、本番終わったばかりで社会復帰できてないので、今回は、昨年、静大演劇部を卒業(静岡大学を、ではない)したばかりの六畳一間について、思ったことをちょいと。
カップラーメンのことであるじゃ。いや、演目の話、カップラーメンとそれにとりつかれた男の話。どうでもいい話を、朗々と?といや堂々?と生真面目?一生懸命に?演じる舞台じゃった。
まず脚本、たかがカップラーメンについて、40分近くも演じる脚本を書いた岡和寛は、馬鹿である。素晴らしいがつく馬鹿である。こういう馬鹿なことに執着して書くというのが素晴らしい。いつしか、たかがカップラーメンの話だと忘れてしまうほど、真剣・まじめに、熱中している舞台も馬鹿馬鹿しい話だけに素晴らしい。だが、よく考えると、でもって求められてもイない深読みをすると、しっかりと対象にこだわって真剣に取り組んでいる多くの人が身の回りにいる。恋と呼ばれるものでも、カップラーメンでも、対象が違うだけで、恋のほうが重大と思うのは本人次第であって、うーんと傍目から見れば、対象に軽重はない。本人の勝手である。
ただ、演劇を観る側は、いわゆる常識ってやつにとらわれて生きている者。演劇に携わる者は、しばしば、いわゆる世間とは違うということを、プライドみたいにして生きている者が多いが、それとてそうした世間の常識とは無縁には生きてはおらない。
ポイントはここであると下足番は思うのじゃ。
この舞台は、もろもろ面白いと思ったのじゃが、この舞台に、たかがカップラーメンの話ですよという、作者、演出の視点があるといいと思ったのじゃ。第三者的視点からの枠とでも言えばいいだろうか。軽味とでもいいだろうか。下足番が知る限り岡和寛が、カッブラーメン命という人には思えない。密かにそうなのかもしれないが。それがあるともっと観客に広がる・伝わる、舞台になったと思ったのじゃったことじゃ。
カップラーメンのことであるじゃ。いや、演目の話、カップラーメンとそれにとりつかれた男の話。どうでもいい話を、朗々と?といや堂々?と生真面目?一生懸命に?演じる舞台じゃった。
まず脚本、たかがカップラーメンについて、40分近くも演じる脚本を書いた岡和寛は、馬鹿である。素晴らしいがつく馬鹿である。こういう馬鹿なことに執着して書くというのが素晴らしい。いつしか、たかがカップラーメンの話だと忘れてしまうほど、真剣・まじめに、熱中している舞台も馬鹿馬鹿しい話だけに素晴らしい。だが、よく考えると、でもって求められてもイない深読みをすると、しっかりと対象にこだわって真剣に取り組んでいる多くの人が身の回りにいる。恋と呼ばれるものでも、カップラーメンでも、対象が違うだけで、恋のほうが重大と思うのは本人次第であって、うーんと傍目から見れば、対象に軽重はない。本人の勝手である。
ただ、演劇を観る側は、いわゆる常識ってやつにとらわれて生きている者。演劇に携わる者は、しばしば、いわゆる世間とは違うということを、プライドみたいにして生きている者が多いが、それとてそうした世間の常識とは無縁には生きてはおらない。
ポイントはここであると下足番は思うのじゃ。
この舞台は、もろもろ面白いと思ったのじゃが、この舞台に、たかがカップラーメンの話ですよという、作者、演出の視点があるといいと思ったのじゃ。第三者的視点からの枠とでも言えばいいだろうか。軽味とでもいいだろうか。下足番が知る限り岡和寛が、カッブラーメン命という人には思えない。密かにそうなのかもしれないが。それがあるともっと観客に広がる・伝わる、舞台になったと思ったのじゃったことじゃ。
2013年02月23日
演劇カタログ2013若い集団の舞台
下足番は村の渡しの船頭さんよりももう年上になってしまった。じゃので、明日の本番に備えて、今日は若い連中の生き血を吸ってみようと、マリナートへ若い集団の舞台を観に行き、なんと4つも観てしまった。
前回カタログでも、静岡大学演劇部には刺激を受けた。まるで形になっていない、しかし、エネルギーが溢れかえっている、どこかの温泉のなんとか地獄みたいに地の底からわけのわからんものがリア充、リア充と湧き出している得体のしれない舞台だったが、それはそれでなかなか楽しいものであった。
で、それからしばらく経った静大演劇部はいかがなものか、と観たのだったのじゃ。
静岡大学演劇部(昔は静岡大学演劇研究会といった)の舞台、もちろんすべてを見てはいない、時折だけど、観た中で超スーパー最高の舞台であった。
原作のトリツカレオトコは幸か不幸か読んだことがない。しかし、すんなりその話が伝わってきた。原作のここがミソが、下足番にも伝わってきたのじゃ。分かった、理解できたではない、伝わってきたのである。
まずはこの脚本を書いた大畑法子はエライ。原作もここまでスッキリしているのかわからないが、余分もなく、本筋からはみ出さず、脚本に、それも筋を追ってみましたというレベルではなく、演劇脚本としてまとめあげた腕前は、なかなかなものだ。見習いたい。爪の垢をいただきたい。
二番目は演出も、やるべきことをしっかりやり、視覚的に舞台として美しいシーンも作り、とてもバランスがよかった。この客観性=やってることを冷静に見つめる目もすごい。
そして、最後に何よりもその演出からはみ出ることなく演じた俳優たちとスタッフたち。そのアンサンブルの良さは拍手もんである。劇団という集団による創作ができていた。連携がとれていたというのかなぁ、うーん。あの年代のワシを思い出すと、恥ずかしい限りじゃ。ノリだけじゃったもんなぁ…。
他の若い集団の舞台も、それぞれやりたいことをやりきっているという感じを得たのだけれど、静大演劇部はよかった。
舞台がイタリアらしく、冒頭、朗々と歌ったりするのだが、それとアイスホッケーのシーンが、立派に下手くそだったので、ある意味、二十歳前後の集団としてバランスがとれていたのだけど、でなかったら、ショックで、明日の舞台どころではなかった。
今回のメンバーの中から、明日の日本の演劇を創る人材が出てくることを期待する、演劇部の前身の演劇研究会に2ヶ月もいられなかった下足番であったじゃった。いい舞台をありがとう。
前回カタログでも、静岡大学演劇部には刺激を受けた。まるで形になっていない、しかし、エネルギーが溢れかえっている、どこかの温泉のなんとか地獄みたいに地の底からわけのわからんものがリア充、リア充と湧き出している得体のしれない舞台だったが、それはそれでなかなか楽しいものであった。
で、それからしばらく経った静大演劇部はいかがなものか、と観たのだったのじゃ。
静岡大学演劇部(昔は静岡大学演劇研究会といった)の舞台、もちろんすべてを見てはいない、時折だけど、観た中で超スーパー最高の舞台であった。
原作のトリツカレオトコは幸か不幸か読んだことがない。しかし、すんなりその話が伝わってきた。原作のここがミソが、下足番にも伝わってきたのじゃ。分かった、理解できたではない、伝わってきたのである。
まずはこの脚本を書いた大畑法子はエライ。原作もここまでスッキリしているのかわからないが、余分もなく、本筋からはみ出さず、脚本に、それも筋を追ってみましたというレベルではなく、演劇脚本としてまとめあげた腕前は、なかなかなものだ。見習いたい。爪の垢をいただきたい。
二番目は演出も、やるべきことをしっかりやり、視覚的に舞台として美しいシーンも作り、とてもバランスがよかった。この客観性=やってることを冷静に見つめる目もすごい。
そして、最後に何よりもその演出からはみ出ることなく演じた俳優たちとスタッフたち。そのアンサンブルの良さは拍手もんである。劇団という集団による創作ができていた。連携がとれていたというのかなぁ、うーん。あの年代のワシを思い出すと、恥ずかしい限りじゃ。ノリだけじゃったもんなぁ…。
他の若い集団の舞台も、それぞれやりたいことをやりきっているという感じを得たのだけれど、静大演劇部はよかった。
舞台がイタリアらしく、冒頭、朗々と歌ったりするのだが、それとアイスホッケーのシーンが、立派に下手くそだったので、ある意味、二十歳前後の集団としてバランスがとれていたのだけど、でなかったら、ショックで、明日の舞台どころではなかった。
今回のメンバーの中から、明日の日本の演劇を創る人材が出てくることを期待する、演劇部の前身の演劇研究会に2ヶ月もいられなかった下足番であったじゃった。いい舞台をありがとう。