2012年10月02日

ひさしぶりじゃ1 園子温

台本とにかく終わりまでこぎつけられなくて劇団員はもちろん、自分自身も七転八倒な日々であったじゃ。で、台本渡して明けて今朝、この詩のことをしった。

「数」  園子温

 まずは何かを正確に数えなくてはなら(な)かった。草が何本あったかでもいい。全部、数えろ。

 花が、例えば花が、桜の花びらが何枚あったか。それが徒労に終わるわけない。まずは一センチメートルとか距離を決める。一つの距離の中の何かを数えなくてはならない。例えば一つの小学校とか、その中の一つの運動場とか、そこに咲いている桜が何本とか、その桜に何枚の花びらがあったとか、距離と数を確かめて、匂いに近づける。その距離の中の正確な数を調べれば匂いと同調する。たぶん俺達の嗅覚は、数を知っている。匂いには必ず数がある。

 その町の人口が何人だとか、その小学校に何人いたか、とか、例えばその日のその時間に何匹の虫が、何匹の蝶が、何匹の蟻が、何匹の芋虫が、いたか、をきっかり、調べるべきだ。俺の嗅ぐ匂いは詩だ。政府は詩を数字にきちんとしろ。

 涙が何滴落ちたか、その数を調べろ。今度またきっとここに来るよという小学校の張り紙の、その今度とは、今から何日目かを数えねばならない。その日はいつか、正確に数えろ。もしくは誰かが伝えていけ。数えろ、少なくとも伝承の中で昔の物語のようにいい加減に伝えるには、一度でもいい、一回でもいい、一日でもいい、あるいは一秒かそこいらでもいい、その空間と、その位置で、その緯度で、その思いつきでもいい、その一瞬の中で、何かを数えてみるべきだ。伝えるべきだ。教えるべきだ。あるいは自分を数える。あるいは飢えた自分の歯並びを数える――自分を数えろ。お前がまず一人だと。 (続く)

 



Posted by みるめ下足番 at 08:28│Comments(0)
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